沢宿 - 沓掛宿 - 追分宿 - 小田井宿 …京北国街道 追分宿(中山道より分岐) - 小諸宿…直江津(北陸道に合流)外国人避暑地と別荘の起源 江戸幕府が倒れ明治時代に入ると交通事情が変化し、参勤交代もなくなったため、全国の宿場町は没落していった。軽井沢においては雨宮敬次郎が開墾事業を計画するなどしたが、地域は衰退していった。1884年(明治17年)には(新)碓氷峠を越える碓氷新道(現在の国道18号)が開通。軽井沢宿は新道のルートからも外れ、宿場町としての機能を失った。しかしその後、1885年(明治18年)夏にカナダ人の聖公会宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが、友人の帝国大学(東京帝国大学)英語講師ジェイムズ・メイン・ディクソンと酷暑の東京を逃れ、たまたま軽井沢を訪問。高林薫平の居宅を借り受けて7月から8月まで滞在した。ショーは軽井沢の冷涼な気候や風土が故郷のトロントと似ていると感じ、「屋根のない病院」と呼んだ。軽井沢が「保健休養地」を称する所以である。ショーはディクソン夫妻を伴い翌年夏軽井沢を再訪した。 1888年(明治21年)に日本に滞在していたカナダ人の宣教師ショーは「つるや」(現在のつるや旅館)の主人の佐藤仲右衛門の斡旋によって旧軽井沢の大塚山に軽井沢初の別荘を建設した。保養地・避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いた。別荘第1号は、民家を移転し、改造したものであった。その後この別荘は日本基督教団軽井沢教会の敷地内に移築保存されていたが、1986年(昭和61年)に再び移築復元され、ショーハウス記念館としてショー記念礼拝堂の裏に現存する。 また1888年(明治21年)9月には碓氷馬車鉄道が官設鉄道横川駅から軽井沢駅間に開通。同年12月には官設鉄道信越本線が長野方の上田駅から軽井沢駅まで延伸された。軽井沢に鉄道が到達し、碓氷新道(国道18号)近くに軽井沢駅が開業した。
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